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琉球王国史雑談。舜天王統から英祖王統へ。朝幕併存に至らず。

(2014年08月17日)

さてと解体屋のおじさんです。こんにちは。
今日は、またまた琉球王国史語り。舜天王統について少し語りたいと思います。

その前に軽く説明しますと、天孫氏というのは沖縄を作った神「阿摩美久」が天帝に願い、男女が降臨して交わってできた子供たち、長男、次男、三男、長女、次女の長男「国王」の子孫の事を指します。
ちなみに次男は按司の初代、三男は農民の初代、長女は君君の初代、次女はノロの初代。

ですが、琉球王国の初代国王は源為朝の子「尊敦」(舜天王)となっております。
つまり、天孫氏とは何の関係もない内地出身の清和源氏。

これはどういうことか?中山世鑑を開きました。

39ページに記載されておりました。
「天孫氏の25代はその姓名を知ることができないため、これを略する。乙丑に始まって、丙午に終わった。およそ一七八〇二年であった」

略されました(--;;(笑) 

中山世鑑を編纂した責任者「羽地朝秀」氏は薩摩閥なので、初代は清和源氏という事にこだわったのでしょうと推測。

この略された天孫氏の次の国王が舜天王となりますが、このままだと「簒奪」になりかねないので・・・
というわけで、次の物語が開始されます。

「その後天孫氏の治世は衰えたので諸侯は背くものが多かった。逆臣利勇が主君を弑逆し位を簒奪してしまった。そのころ尊敦は浦添按司だったが、徳を修めて民を統治すること昔の有熊氏の如くだったので、諸侯は皆尊敦に帰順した。遂に仁義に反する利勇を討伐して宝位に昇った。これが舜天王である」

「逆臣を討つ」
型どおりですが、これなら簒奪にはならない・・・

一応、中国の朱子学だと「王者」と「覇者」は区別されておりまして、
王者は「徳を修めて皆に親しめる者」
覇者は「ちからで無理やり言う事をきかせるもの」

簒奪という行為は覇者になりますので、それはまずいという事で話を作ったのでしょう・・・

いや、実は、この後に英祖王統に禅譲するわけですが、その英祖王統は天孫氏の子孫とされているのです。
禅譲の意味は、戦争や謀略によらずに他人に玉座を明け渡すことを言います。

時代は舜天王から舜馬順熙(舜天王の第一王子)そして、その舜馬順熙王の第一王子の義本の時代へと移ります。

義本王は即位のときに飢饉がおき、翌年には悪い病が発生して人民の半ばを失ったので、王は群臣を招いて「予の不徳であり誰かに国王の位を譲るべきだ」と下問。
すると群臣は「恵祖の世の主の嫡子である英祖」を推薦した。

いきなり話題を変えますが、内地の例を出しますと、
内地には律令体制が有り、荘園制度が有り、同時に検非違使以外の軍隊は蝦夷討伐を除いて廃止されたので、農民は武装しないと自分の食い扶持が危ない、危険(武士のおこり)
でも、自分で開墾した土地が自分のモノにならずに、荘園領主のマネージャーにならないと不輸の権/不入の権など(免税権)が得られないというところに、

源頼朝が登場して「征夷大将軍の拝命」「守護、地頭の設置」というグランドデザインを作ることによって、ようやく土地が少しとはいえ自分のモノになることになった。

そういった流れが有るのですが、沖縄にはそういった流れがないのですね。
実は天孫氏の王統と世俗の王(征夷大将軍てきなもの)の両立は、沖縄でも出来る要素はあったと思いますので。
しかし、そこには至らなかった。

まあ、東アジアで(ひょっとしたら世界でも)一番特殊な政治形態をしているのは、おそらく日本だとは思いますが。
政府が二つあって祭政分離して役割分担している国って、ほとんどないでしょうし。
幕末に来た欧米人は、いったい誰が政治のトップなのか迷ってしまう現象が起こっております。

沖縄では普通に政府が二つ(幕府と朝廷)という事はなく、一つで幕末を迎えます。

というところで、今日はこのあたりでタイピングを終了したいと思います。
赤子が泣き始めたので、そっちの世話しないと(汗)

お茶にします、お疲れ様です。
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Author:moromizato12
トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

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