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江戸時代/覇王、徳川家康の日本

(2015年11月01日)

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
前編で関ヶ原の戦いに勝利した家康は、信長、秀吉の拡大路線に修正を施し、
日本の領土は、本州、四国、九州、ということになりました。

まだ、沖縄と北海道は領地に組み込まれておりませんが、それはのちの話。
ただし、沖縄と北海道も日本語文化圏ですので、必然的に日本に組み込まれます。
でも、それは別の話。今日は江戸時代の話です。

家康はまずは、征夷大将軍になり・・・これは郷土の先輩、源頼朝に習ったのでしょう。
頼朝は三河ちかくで生まれたという伝説があり、家康自身も歴史好きで吾妻鏡を愛読していたので。

そして、中国の儒教をアレンジして導入しました。
よく誤解されている方が多いのですが、「士農工商」は家康のオリジナルでは有りません。
中国の儒教を日本風にアレンジして導入したのです。

士大夫という言葉を聞いたことがありますか?

中国の北宋以降、科挙試験に合格したものを士大夫と呼び、さらに農民、職人、商人を制度上の下位のものとして位置づけしました。
そう、もとの思想は中国のものです。

なので中国と朝鮮半島は日本の士農工商を「兵農工商」とよんでバカにしておりました。
ですが、軍事政権だからこそ近代化を成し遂げるのが早かったのも事実です。でもそれは明治の話です。

ちなみに自分の出身県の沖縄も科挙試験方式をとり、薩摩の介入で少しは武器をもつとはいえ、上流階級は科挙試験出身のままで明治維新をむかえます。
覚悟が足りなかった。子孫の自分も含めて自戒の言葉です。


そして身分の固定化を行ったわけです。農民の子供は農民、職人の子供は職人、これを260年くらい続けたわけです。
なので、前に述べたとおり毛利の家臣はみんな恨みに思っていた。10石の武士は、260年間10石の武士です。子孫も決して変わらない。

そして毛利は安芸(広島)にいたより、貧しくなっている。
だから祖父から孫まで、延々と同じことを言い続けるわけです。

「安芸にいたころは豊かだった」これを延々と。260年も。
司馬遼太郎氏は恨みは世襲する、と述べました。
その事態を引き起こしたわけです。

毛利は潰さなくてはならなかった。ま、でも、それは家康の失敗で、それも数少ない失敗なので、覇王といえども失敗はあるか。という話です。

毛利では失敗した家康ですが、豊臣では子孫を残しませんでした。
何回か述べましたが「悪を背負った」のです。後世のために、です。子孫のためにではない。
争いのない平和な時代を260年も作った。それは偉業といって間違いないです。

その間ずっと平和だったということですから。

そして実は徳川家にとって最大の問題は、毛利でも豊臣でもなくて天皇家ですが。
こればっかりは家康といえども対処できなかった。歴史が古すぎる、今上天皇は日本一の祭主でもある。
家康といえども手出しはできない。

なので、関東を譜代大名で固めて、御三家水戸家にだけは、天皇家と徳川家が争った場合、水戸家だけは天皇家につけ、と遺言した。
多分傍証にしかならないでしょうが、水戸家だけは副将軍にしかなれなくて、日本国学発祥も水戸徳川家が始まりです。
尊皇という言葉は水戸家が広めた。ちょいと弱いかな?ま、でも傍証になるかと思います。

今日はこんな感じかな?コーヒータイムします。
お疲れ様です。あと一回くらいで家康編は終了します。

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
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トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

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