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中国大返し/豊臣秀吉編

(2015年03月01日)

さてと、解体屋のおじさんです。こんにちは。
今日は本能寺はすっとばして、豊臣秀吉編に突入したいと思います。

と言いますのも、本能寺は以前書いておりまして。
下記にURL表示しておきますので、本能寺の変を見たい方はそちらを参考にしてください。

http://moromizato12.ti-da.net/e6746916.html

というわけですので、秀吉編に入りますが・・・・まずは本能寺の時の信長陣営の状況から。

信長と信忠は京都に在京しております。手勢は信長は20名程度、信忠は80名程度。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は備中高松城にて毛利と戦闘中。手勢は30000兵。

織田信孝(信長の側室の子/三男)と丹羽長秀は四国討伐の軍勢を準備中。信長死去との訃報を受けて手勢はチリチリバラバラ。手勢はとりあえずなし。後に羽柴秀吉に合流。

柴田勝家・佐々成政・
前田利家・佐久間盛政らは越中国(’富山県)にて上杉と戦争中。手勢は40000兵。

滝川一益は18000兵を持っていたが信長死去の訃報を受けて敗北。清洲会議にも不参加。

徳川家康は堺に少数のお供を連れて滞在中。

そして明智光秀・明智秀満・斎藤利三は13000の兵を率いて羽柴秀吉の応援に向かうところ、

というところで本能寺の変は起こりますが。

えっとね。
城攻めの最中だったんですよ秀吉は。
そして本能寺の変を知ったら、即座に毛利と和睦を結ぶわけですが。

城を落とすために水攻めの最中だったんですけどね。
前代未聞の城取名人(秀吉のあだ名)の真骨頂状態の時に本能寺の変は起こります。

そして信長死去との訃報を携えた密使が水攻め最中の城に近づけない処で、秀吉側に捕まり、秀吉が本能寺を知ると即座に信長の死を隠したまま毛利と和睦。引き返します。

秀吉の伝説「中国大返し」の始まりです。
秀吉は早馬を走らせて、道中の家すべてに兵糧と水を準備させて、兵を休ますこともなく京都へ向けて進軍していきます。

ここで、ちょっと和睦の話に戻りますが。
えっとね。本人死んでるのにそれを隠して使いのモノが和睦なんて現代の契約でも無効なんですよ。
つまり、毛利は秀吉にいっぱいくらわされた形になったのです。(^^;;
でも、だまされたと後に知った毛利は、それでも追撃は控えました。

秀吉は京都近くに戻っても毛利方が追撃をしてこないということを知りました。秀吉がとてつもない幸運を手に入れた瞬間です。

後に秀吉は有力大名を集めて五大老というシステムを作りますが、毛利が入るのは当然として、毛利の両川と呼ばれた小早川隆景(毛利の分家)も入れたのは、この時の毛利の対応に感謝していたからです。

そう、毛利が追撃してこないというこの時の状況になった時点で、毛利と秀吉は実質上の同盟関係を結んだことになります。
このあたりも強運ですね。

そして今までに秀吉が稼いだお金を全部臣下に振舞います。明智光秀との決戦に備えるためです。
さらに名目上の頭となる織田信孝も秀吉軍に合流。

明智光秀は天王山に進軍して対峙。

ここをクリアしないと全て水の泡になりますので秀吉も本腰を入れます。
天王山の戦いへと話は進んでいきますが。

さてと、本日のブログはここまでにします。子供たちが起きてきましたので。
朝のコーヒータイム、お疲れ様です。

( ^^) _U~~

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

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トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

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