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サダムフセインと織田信長/現代の中東情勢と日本の戦国時代

さてと、前回は足利将軍を殺したにもかかわらず、善政を行い民の心を掴んだ北条早雲の話を書きました。
というわけで、となると次は織田信長になります。

この方は・・・語られ尽くされすぎで・・・んー・・・どうしましょうかね?

まあ、そのまえに前回途切れてしまった、勝海舟が褒めた戦国大名三氏の話を。

「日本国中で、古来民政の行き届いたところは、まづ甲州と、尾州と、小田原との三カ所だろうよ。信玄や、信長や、早雲の遺徳は未だこの三カ所の人民に慕われて居るらしい。信長という男は、流石に天下に大望を持って居ただけあって、民政の事には、深く意を用いて、租税を軽くし、民力を養い、大いに武を天下に用いるの実力を蓄えたと見える。今日尾州に行って、よく吟味して見なさい、当時の善政良法が、今なほ歴々として残って居ることを見出すだろう。」

こんな感じで褒めているわけです。武田信玄は守護大名からの転身で戦国大名になって領土を次々と拡大していったわけです。また、治水にとりこんで成功させて、田畑を増やすことにも成功している、

だから’「お前を間引かなかったのはお館さまのおかげだよ。足を向けて寝ちゃいけねえ」となるわけです。

でも、京都に向かう事は出来なかった。実はこの時代はまだ「兵農分離」が出来てないわけです。春には米の作付けのために帰らないといけない。あまり知られてないけど、上杉謙信なんかも京都には何回か進軍しています。でも、春には帰ってしまうんです。コメの作付けしないといけないから。

よって兵農分離された軍隊を作らなくてはならないのです。それを初めて行ったのが織田信長。
ただ、金で雇われた兵隊だから織田兵は弱いんです。武田家みたいに家族を人質に取られてる兵隊兼業農民とはやはり質が違う(^^;;

東海最強は家康の三河兵で「三河兵は織田兵の三倍強い」と言われておりました。今川家に家康が人質になり、三河兵は毎度の如く最前線に立たされてたので、命がけで鍛えられたわけです。

それでも三方ヶ原の戦いでは家康は武田信玄に一発でやられますが。信玄は当時なら上杉謙信と並んで日本最強だったかもしれない。
ただ、織田信長の後に天下取りの構想を開始しているので、信長はやはり先駆者なのです。
信長は岐阜を取った時点で岐阜から京都へのルートを同盟と戦争で確保した。

信玄は晩年になって信長のマネを始めたので、やはり一歩出遅れてはいるのです。

信長は・・・良い悪いは別にして、好き嫌いは別にして誰かがやらなくてはならなかった事を実行に移している。
特に特筆すべきことは、信長、秀吉、家康の三代で宗教勢力の牙を抜くことに成功したことです。

wikiから抜粋。天文法華の乱のページをご覧ください。


日本の戦国時代に起きた、京都における宗教的な騒乱である。浄土宗寄りの用語などでは「天文法華の乱」、日蓮宗側の用語では「天文法難」と呼ばれる。
天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が町衆の大半に浸透し、極めて強い勢力を誇るようになっていた。1532年(天文元年)、一向宗徒の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで一向宗寺院を焼き討ちした。特に東山を隔てた山科盆地に、土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた一向宗の本拠である山科本願寺はこの際の焼き討ちで全焼した。この後、日蓮宗門徒は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。(こうした法華宗の勢力拡大を浄土宗側などが「法華一揆」と呼ぶ。法華宗側ではそうは呼ばない。)
天文5年2月、京都法華宗は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけて延暦寺側もそれに応じ、天文5年(1536年)年3月3日に比叡山西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本新左衛門久吉(松本久吉)とが問答したところ、松本久吉のほうが華王房を論破した(松本問答)。
比叡山の僧侶が他宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まり、すっかり面目を潰されたと感じた比叡山側は激怒。1536年(天文5年)、比叡山は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めるよう室町幕府に裁定を求めたが、幕府は後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、比叡山はこの裁判でも負けた。[注 1] 延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議。
7月、比叡山の僧兵集団が京都法華宗の撃滅へと乗り出した。延暦寺(山門)全山の大衆が集合して京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った(当時の比叡山などの仏教勢力というのは、現代人が「寺」と聞いて思い描くような平和的な集団ではなく。武装した僧兵を抱えた武装集団であり軍閥であった。そして延暦寺などは、(まるで現代の「暴力団」のように)武力行使をちらつかせ周囲の他宗派の中小寺院を恫喝・恐喝し、もとの宗派のままでの存続を許す代わりに上納金を納めさせて「末寺」化し、事実上支配下に置いてしまうという乱暴・横暴なことを繰り返していた)。
京都日蓮宗側は(ある意味で当然のことだが)比叡山のこうした要求を拒否。 延暦寺は、要求を拒否されると、後奈良天皇や幕府に法華宗討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対していた他宗の園城寺・東寺・興福寺・本願寺などにまで協力を求めた。いずれも援軍は断ったが、中立を約束した。
延暦寺の僧兵と宗徒、近江の大名・六角定頼の援軍が加わって、延暦寺側は総計約6万人を動員して京都市中に押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山をことごとく焼き払い、京都法華宗の三千人とも一万人とも言われる人々を殺してしまった(天文法難)。
さらに延暦寺の勢力が放った火は大火を招き、京都は下京区全域および上京区の3分の1ほどが焼失してしまうという惨事まで引き起こした。京都は延焼面積では応仁の乱に勝る被害を受けたとも言う。
こうして隆盛を誇った洛中の日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。1542年(天文11年)に京都帰還を許す勅許が再び下り、後に日蓮宗寺院十五本山が再建された。


つまり、今の元のイラクが有ったところの情勢と変わらなかったわけです。比叡山延暦寺が武装して焼き討ちとかしている状態。
だから誰かが、巨大な武力をもって焼き討ちして武装放棄させないといけなかった。それを信長が行ったと。

いきなり中東の話題に飛びますが、自分はアメリカが何もしなければ、サダムフセインは「織田信長」の役割を演じて宗教勢力、むこうはシーア派とスンニ派ですか。そちらの牙を抜くことが出来たはずです。

武装宗教勢力と戦うには民主主義では無理です。理由は宗教勢力が多数派になってしまうから。なので独裁者じゃないと宗教とは戦えない。

なのにアメリカ・・・というか、ブッシュが余計なことをするもんだから・・・イラク周辺は強力な指導者がでないかぎり、不安定なまま何十年も混乱すると予測しています。イラクに織田信長がもう一度登場しない限りは、ずっとイラクの戦国はずっと続くことになる。

今日はこのあたりでタイピングをやめておきたいと思います。
朝のコーヒータイム。お疲れ様です。( ^^) _U~~

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自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
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