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流浪人から戦国大名へ。北条早雲。

(2015年01月11日)

さてと、解体屋のおじさんです。こんにちは。
本日は北条早雲の人となりを語りたいと思います。

ちなみに北条早雲の本名は伊勢盛時。うん、北条と名乗ったのは後付けなのです。
ちなみに鎌倉時代の執権「北条氏」とは何の関係も有りません。

そのため戦国時代の北条早雲とその子孫は歴史語りでは「後北条」と呼ばれることが多いです。

北条早雲の子孫の誰かが、後付けで関東では有名な「北条」と名乗るようになったというのが定説ですが、確証は有りません。
早雲自体が生きてるときは、伊勢盛時と呼ばれておりますが、その名前で呼ぶと誰が誰やらになるので、このブログでは通名の北条早雲で呼ぶことにいたします。

若いころは京都にいたらしく幕府申次衆として活動してましたが、例の如く応仁の乱が勃発。足利義視/細川勝元(東軍)側に所属していたようです。
そして駿河の今川家が応仁の乱の余波で東軍側、西軍側に分かれて家督相続争いで分裂していたので、早雲の姉「北川殿」が今川家に嫁いでいたことも有り、今川家の分裂を回避しようと駿河へ下向します。

今川家に姉がとつげるあたり、北条早雲の出身、伊勢家自体もそこそこの家柄では有ったみたいです。
そこで関東管領「上杉家」堀越公方「足利家」の名前をうまく使い、「和平に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と脅して調停に成功、龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。

ちなみにこの年、北条早雲の年は齢44才。えーっと、まだ戦国大名にもなってないので、かなり遅いスタートです。
逆に言うと、そんな年からでも再スタートできるんだ、という、オッサンにとってはありがたい話でもあります。(笑)

この時にこんな逸話が有ります。wikiから抜粋。

「『北条記』『名将言行録』に見える早雲駿河下向時の一節には、大道寺太郎(重時)、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛らの仲間6人(御由緒六家)と、伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという話が残っている[22]。『公方両将記』には、陸奥国へ下ろうとしていた早雲は駿河の薩埵峠で盗賊に遭い身ぐるみはがされて難渋していたところを守護の奥方の輿と出会い衣服を与えられた。それが「叔母」の北川殿であった。その縁で今川氏に仕えるようになったという話になっている[27][注釈 3]。いずれも、いかにも大志を抱く素浪人にふさわしい話となっている。」

話としては面白いですが、ちょいと出来すぎてるな、という感はあります。というのも、まだ守護大名の力が強い時期なので(守護でも何でもないのに河内を占領している大名はいる。他にも朝倉家などは存在するけど)大名になろうというのは夢物語な感じなので。
ま、でも、一般人でも将来頑張って家を立てようとかの話はするので、その延長上として上記の話はしていたかもしれない。

話題がそれました。元に戻すと、この調停を機に関東へと足がかりを早雲は築いていきます。

調停が終了した後に京都にいったん戻りますが範満が龍王丸が成人しても家督を譲ろうとしないため、再度下向して兵を募り、龍王丸を今川家の当主とすることに成功します。

ちなみに北条早雲は、このころにちゃっかり今川家の守護代になっております。転身はやい(笑)
更にこのころ、北条早雲は借金してて訴訟を起こされていたらしい。このせいで早雲は東国に逃げたらしい。はた迷惑なんだが(笑)

さてと問題の伊豆討ち入り(足利将軍の暗殺)なんですが・・・


いったん、ここで終了。子供が騒いでいるので、あとで追記します。
すみません、お疲れ様です。

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

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トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

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