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日本史語り/下剋上の登竜門「右近衛大将」編

(2014年02月16日)

みなさん、こんにちは。
本日は午前中は仕事が有りまして職場に向かいまして。
午後からは時間が出来ましたので、ブログを書こうと思いますが・・・

それも少しマニアックな話。
朝廷での官位「右近衛大将」について少し書こうと思います。

本来は殿中の人(公家)ではない。

でも官職は「右近衛大将」に就任。
息子および側近は「秋田城介」に就任。

さて、だれの事でしょう?

ぱっと答えられる人は少ないと思いますが、名前を知ると「ああ、なるほど」と納得する方は多いと思います。
共に天下人か、その寸前まで近づいた人。

答えは二人。

「源頼朝」「織田信長」

東北対策に「秋田城介」を拝命するのも共通しております。

信長は全国政権へ向けての布石、頼朝は奥州藤原氏へのけん制。

この「右近衛大将」は「征夷大将軍」への前職的な色彩を帯びた珍しい官職でして、通常は公家が拝命するものです。
ウィキペディアで検索しますと・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%A4%A7%E5%B0%86

出てきました。

平安末期や戦国時代を除くと、大体は「五摂家」と「清華家」(一条とか九条とかの名字が五摂家、西園寺とかの名字が清華家、ともに藤原氏の末裔)が就任しております。

天下が混乱した時だけに武家の棟梁が就任し、全国の武門に命令を出せる強制力を帯びた官職として機能、それが右近衛大将。
したがって普段は名誉職です。

もっとも源頼朝が最初に拝命した時は、後白河法皇が頼朝の「征夷大将軍」襲名を断固として阻止するために宛がった官職だとは思います。

(頼朝が征夷大将軍に就任して幕府(独自の組織)を開いたら天下が二分される。それを恐れての後白河法皇の措置かと推測しております。)

でも一度でも就任した例が存在したとすると「過去に例がある」ということで歴史を動かすのが朝廷という組織。

後世の織田信長も右近衛大将に任じられます。
息子には「秋田城介」。

これは信長/信忠親子を頼朝と同様の存在と朝廷が認めたことになります。

だから「源氏しか征夷大将軍になることは出来ない」という通説は、自分はたぶん違うのではないか、
徳川時代に後付けで設定したのではないか、

という考えを、ずっと持っているわけです。

織田信長は、この後に「太政大臣、関白、征夷大将軍/就任」の通称「三職推任問題」も浮上してきますので。

蛇足だったかな?(^^;;

今日、なぜこのことを書こうかと考えたのは、まあ、テレビで

「源頼朝はいつ鎌倉幕府を開いたか?」で現在の教科書には六つの説が併記されており、

その中の一つに「頼朝の右近衛大将就任」説が有りましたので、
それなら後世の信長も就任していて、「秋田城介」も関係してくるよ、という補足も行いたかったということです。

お目汚し失礼しました。

本日のブログはこれにて終了、お茶にします。
またです(^^)ノ
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Author:moromizato12
トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

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