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なにがどうなって、こうなるのやら・・・・日野富子編

(2014年12月21日)

さてと解体屋のおじさんです、おはようございます。
本日は日野富子について語りたいと思いますが・・・この方はねえ・・・

まあ、なんて言いますか、保険とか年金とかない時代だから稼ぐのは悪くはないのですが、
応仁の乱という戦争にまで投資してたもんだから・・・しかも、敵味方どっちにも(^^;;

融資を引き揚げたら戦争は終了になります。戦争中だって飯は食わないといけないんだから。
百歩譲って、融資をするなら西軍にだけ、自分の息子を擁立しようとする山名宗全側(西軍)にだけ融資すればいい。

西軍が勝つ可能性が高くなるでしょ?

でも、どっちにも融資しているもんだから・・・

「天下は破れば破れよ。世間は滅びば滅びよ。人はともあれ我が身さえ富貴ならば」

上記を本当に実践中な方。というか、自分の息子「義尚」を擁立するために、山名宗全と手を組んだんじゃなかったの?
本末転倒にもほどが有るんだが。

この方も怪物いうてるのは、このあたりを指します。

金は稼ぎすぎると中毒になるという話は聞いたことあるけど、多分この人もそうだったんだろうね。
それにしてもなあ・・・・

この戦争は1467年から1477年まで続きます。
融資ひきあげたら応仁の乱はもっと早く終わってたろうね・・・(^^::

ちなみにこの方は応仁の乱以降は、室町幕府の大株主みたいな立ち位置になります。
将軍を意のままに操ろうと、義尚が25の若さで没すると、富子主導で将軍を擁立するようになります。

次はwikiから抜粋。

「息子の急死に意気消沈したが、富子は義視と自分の妹の間に生まれた足利義材(後の義稙)を将軍に擁立するよう義政と協議し、同年4月に合意が行われた。延徳2年(1490年)正月に義政が没すると、義材が10代将軍となった。しかし後見人となった義視は権力を持ち続ける富子と争い、富子の邸宅小河邸を破壊し領地を差し押さえた。翌年の義視の死後、親政を開始した義材もまた富子と敵対した。
明応2年(1493年)、義材が河内に出征している間に富子は細川政元と共にクーデターを起こして義材を廃し、義政の甥で堀越公方足利政知の子足利義澄を11代将軍に就けた(明応の政変)。その3年後、明応5年(1496年)に57歳で死亡した。」

稼ぎまくっていましたが、あの世にまでお金は持っていけない、という事を忘れてたのかもしれない。
という感じの、ものすごい女性でした。

即位してないだけの則天武后(武則天)と勝手に名付けた理由がお解りになったでしょうか?

さてと朝のコーヒータイムに入ります。
お疲れ様です。( ^^) _U~~

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

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トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

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