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覇王、徳川家康と日本史の総括

(2015年11月22日)

我々現代人は横のつながりで生活しております。その横のつながりは世界と呼んでも良いかもしれません。
ですが、過去という繋がりもあり、それは現代にも繋がり、我々の子供たちから孫へと未来へと繋がっていくわけです。
その縦のつながりを歴史と言います。
歴史を知るということは、自分たちの親の世代からさかのぼり、ご先祖様たちを間接的にとはいえ知るということです。
疎かにせずに知ることで、過去の人たちの知恵や経験を学べます。
それは過去の失敗に対する答えとなっており、成功に対する答えでもあり、現代にも通じて未来へと繋がっていく知識の集積体になります。
知っていて損はないでしょう。

というところで、いつものフレーズに入ります。こんにちは、解体屋のおじさんです。
今日は徳川家康編のラストと同時に自分の日本史ブログのラストと、そういうことなので、仰々しい始まりになりました。
長くなりますよ。江戸時代以前の日本史の総括になりますから。

この日本史ブログを終了したあとは、一ヶ月ほど休養しながら読書して、本命の沖縄史(琉球王国史)に入ります。
今日はその前に日本史を片付けます。ということで、いきますよ。

まず最初に飛鳥時代に日本の土地は全部国のものと決まったわけです。大化の改新です。
租庸調といった税金も発生します。

なので、藤原氏は荘園という脱税システムを作って、開墾した土地は藤原氏に寄付したら税金免除というシステムを導入しました。
不輸の権や不入の権ですね。藤原氏に寄付すると税金はただ、手数料はらうだけ。
なので全国が荘園だらけになって、挙げ句の果てには天皇家まで荘園もちました。

ここで武力もって天皇家を追い出したら易姓革命成立します。というか、他の国なら確実にそうなっている。
沖縄だって金丸は第一尚氏から禅譲されてる。

なのに藤原氏は臣下であり続けたわけです。ちなみに税金払われてないから警察が消えかかってます。
税金なしで警察なんかできるわけないです。だって警察にいても給料もらえないもん。検非違使といいますが。

なので、地方の農民は武装します。武士の起こりです。
武装農民が本来の武士なのです。そして武士は開墾した農民でもあります。

では次の時代に来るのはなにか?それは開墾した土地が自分のものになる時代です。
今のままだと、藤原氏に寄付するしかない。

なので源頼朝はグランドデザインを描きます。
それは幕府を作り全国の武装農民を、朝廷とは別組織の幕府配下のものと位置付けて、警察の仕事をする守護、手数料の半分をとる地頭の設置、
任命権は朝廷にはなく幕府にあるというシステム。幕府は武士を地頭に任命します。
これにより幕府は全国支配を達成しますが。ひとつ問題が。

自分の土地になった武士たちは、均分相続制、わかりやすくいうと、子供みんなに畑を分割して与えたのですよ。
なので畑はどんどん小さくなって、働いても働いても暮らしていけない時代になってしまいました。

なので元寇もあり、鎌倉幕府は倒されます。
なので、次の時代は総領制、わかりやすくいうと一番優秀な人物が全部継ぐという時代になりました。室町時代です。
でも何を持って優秀とするか、基準がないのです。学歴とかもない時代だし。
なので相続争いのオンパレードになり、戦国時代に突入します。

ということだったので、歴史に詳しい家康は、優秀だろうとなかろうと、長子相続制、長男が全部継ぐと決めて、
自ら実行に移したわけです。

家光は壇上にあげて、弟の忠長はお菓子を放り投げてあたえた、厳しいし古くさいという意見もあるでしょうが、
当時としてはそれがベターなのです。

ちなみに自分が江戸時代かかないのは、江戸時代の人たちは長子相続制のせいで普通のひとばっかりだからです。(待て)
いやだって、鎌倉末期から戦国って天皇ですら脱出の天才ですがな。後醍醐天皇ですが。
あの方三回くらい脱出してるぞ。ナポレオンよりすごいわ(^◇^;)

足利義政だって、この人いないと日本文化ないってくらいのレベルだし。芸術方面ですが。

江戸時代は名君もいるけど、基本は普通のひとが集まっての合議制なので、
端折ります。

家康についての意見に戻りますと。
この方は、戦国時代を終わらせるために生まれてきたのではないかな?とも思います。
信長、秀吉だと260年間も平和に保てたとは思えない。

能力自体は信長、秀吉の方が上でしょうが、
歴史を深く考察できる前提条件を揃えていたのは、家康だけでした。

そんなこと言っておりますが家康もとんでもなく強いですよ。
本能寺の変のとき、30くらいの兵で岡崎城に逃げておりましたが、その間に100名も雑兵倒している。(^◇^;)

家康だって普通のひとよりは遥かに強いわけですが、
それでも信長、秀吉、家康三者のなかから手本にする人を選べと言ったら家康になるわけです。

忍耐とか苦渋とかを知っており、意外と短気です。(笑)
信長はそんな言葉知らない、秀吉は本能寺の変で頭下げてたのが、いきなり頭つきぬけて俺についてこいで可哀想(まて)になるので。

と雑談もここまでにして。
これにて自分の日本史ブログも終了になります。

全部まとめると何ページになるかな?ずっと書き続けてました。
それも終了になります。

ここまで長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
しばらく休養いたします。

お疲れ様です。
*\(^o^)/*

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

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江戸時代/覇王、徳川家康の日本

(2015年11月01日)

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
前編で関ヶ原の戦いに勝利した家康は、信長、秀吉の拡大路線に修正を施し、
日本の領土は、本州、四国、九州、ということになりました。

まだ、沖縄と北海道は領地に組み込まれておりませんが、それはのちの話。
ただし、沖縄と北海道も日本語文化圏ですので、必然的に日本に組み込まれます。
でも、それは別の話。今日は江戸時代の話です。

家康はまずは、征夷大将軍になり・・・これは郷土の先輩、源頼朝に習ったのでしょう。
頼朝は三河ちかくで生まれたという伝説があり、家康自身も歴史好きで吾妻鏡を愛読していたので。

そして、中国の儒教をアレンジして導入しました。
よく誤解されている方が多いのですが、「士農工商」は家康のオリジナルでは有りません。
中国の儒教を日本風にアレンジして導入したのです。

士大夫という言葉を聞いたことがありますか?

中国の北宋以降、科挙試験に合格したものを士大夫と呼び、さらに農民、職人、商人を制度上の下位のものとして位置づけしました。
そう、もとの思想は中国のものです。

なので中国と朝鮮半島は日本の士農工商を「兵農工商」とよんでバカにしておりました。
ですが、軍事政権だからこそ近代化を成し遂げるのが早かったのも事実です。でもそれは明治の話です。

ちなみに自分の出身県の沖縄も科挙試験方式をとり、薩摩の介入で少しは武器をもつとはいえ、上流階級は科挙試験出身のままで明治維新をむかえます。
覚悟が足りなかった。子孫の自分も含めて自戒の言葉です。


そして身分の固定化を行ったわけです。農民の子供は農民、職人の子供は職人、これを260年くらい続けたわけです。
なので、前に述べたとおり毛利の家臣はみんな恨みに思っていた。10石の武士は、260年間10石の武士です。子孫も決して変わらない。

そして毛利は安芸(広島)にいたより、貧しくなっている。
だから祖父から孫まで、延々と同じことを言い続けるわけです。

「安芸にいたころは豊かだった」これを延々と。260年も。
司馬遼太郎氏は恨みは世襲する、と述べました。
その事態を引き起こしたわけです。

毛利は潰さなくてはならなかった。ま、でも、それは家康の失敗で、それも数少ない失敗なので、覇王といえども失敗はあるか。という話です。

毛利では失敗した家康ですが、豊臣では子孫を残しませんでした。
何回か述べましたが「悪を背負った」のです。後世のために、です。子孫のためにではない。
争いのない平和な時代を260年も作った。それは偉業といって間違いないです。

その間ずっと平和だったということですから。

そして実は徳川家にとって最大の問題は、毛利でも豊臣でもなくて天皇家ですが。
こればっかりは家康といえども対処できなかった。歴史が古すぎる、今上天皇は日本一の祭主でもある。
家康といえども手出しはできない。

なので、関東を譜代大名で固めて、御三家水戸家にだけは、天皇家と徳川家が争った場合、水戸家だけは天皇家につけ、と遺言した。
多分傍証にしかならないでしょうが、水戸家だけは副将軍にしかなれなくて、日本国学発祥も水戸徳川家が始まりです。
尊皇という言葉は水戸家が広めた。ちょいと弱いかな?ま、でも傍証になるかと思います。

今日はこんな感じかな?コーヒータイムします。
お疲れ様です。あと一回くらいで家康編は終了します。

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家康、石田三成を助ける/関ヶ原前夜

(2015年10月25日)

今日の話は以上です。お疲れ様。(待て)
解体屋のおじさんです、こんにちは。

そして今日は関ヶ原前夜を書こうと思いますが、そこで狐と狸の化かしあいが有りました。
それが関ヶ原前夜の石田三成襲撃事件。七将の下にある石田三成襲撃事件をご参考にしてください。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/七将#.E7.9F.B3.E7.94.B0.E4.B8.89.E6.88.90.E8.A5.B2.E6.92.83.E4.BA.8B.E4.BB.B6

豊臣政権下で武断派と統治派で対立があったわけですが、前田利家死後の後表面化したわけですよ。
そして三成を殺そうと七将が大阪で兵をあげたのですが、三成はなんと、徳川家康がいる伏見城に逃げ込んだ、と。
そして天下を狙っている家康も、いまこの時点で三成を殺させるわけにはいかないからと、引退を条件に七将に兵を引かせた。

三成には護衛に自分の息子まで着けるという厚遇で。

家康はこの対立をボヤじゃなくて大火事にしたいんですよ。三成も同様で大火事にして家康を排除したい。

両者の利害が一致という、狸と狐の化かしあいの本領発揮。怖いわ(^◇^;)

なんで俺が護佐丸を忠臣と呼んでいるかは、この化かしあいを知っていたからです。
家康の位置にいたからね、護佐丸は。

ま、ただ、琉球王国の三山統一は応仁の乱以前だから無理とは解っているけども。

ちなみに、この七将は関ヶ原では東軍について戦っております。
武断派は三成憎しのあまり、家康側についてしまった。

豊臣秀頼、執権石田三成、という事態は意地でも避けたかったのでしょう。

そして、家康は上杉景勝挙兵とのことで兵を挙げて上杉討伐、その間に秀頼と毛利輝元を総大将とした石田三成も挙兵、これにより関ヶ原の陣営は整えられました。

結果はみなさん、ご存知の通り。

さて、今日はこれにて終了します。
お茶タイム。お疲れ様です。

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関ヶ原から長州藩/不気味な胎動

(2015年10月18日)

さてと解体屋のおじさんです。こんにちは。
んで、今日もiPadで書いてますので、ちゃちゃちゃと終わらせたいと思います。
さて、関ヶ原前夜なのですが、その前に書いておかないといけないことを書いときます。

関ヶ原の戦いは、徳川家康対石田三成となっておりますが、正確には西軍の総大将は石田三成ではありません。
石田三成は西軍の黒幕です。

じゃ、西軍の総大将は誰かというと、毛利輝元。
のちに長州藩になる毛利家です。

だから吉田松陰はこう述べてたのです。
「我々は毛利家の家臣だ。だから関ヶ原からやろう。君たちならどうする?」

主君が悪いとは、口が裂けても言ってはいけません。

ということは、、、

実は関ヶ原で負けたあと、毛利輝元は徳川家康に大阪城と豊臣秀頼を明け渡してます。
部下が反対しきって、大阪城で戦ってたら、,、?

そう、徳川家康は幕末には毛利家を存続させたことにより長州藩という怪物を生むことになり、そのイデオロギーは日本陸軍を生み、アメリカに解体されるまでその精神は受け継がれることになります。

つまり「上層部の意思を無視して、現場が勝手にやってよし」という組織。
関東軍がクーデター的に満州国を建国できたのも、そのイデオロギーが受け継がれていたわけです。
帝国議会は事後承認しか出来ませんでした。

歴史の皮肉というべきか、なんというべきか。
家康も毛利家は潰す予定だったのです。

ですが、東軍についた毛利の両川、吉川家が自分の領地を毛利家にと家康に必死に頼み、家康は渋々と認めました。
ですが、毛利の家臣は恨みに思っていた。

故司馬遼太郎氏も述べたとおり「家康、千慮の一失」だったのです。

あれ、関ヶ原前夜書こうと思っていたけど、毛利家の話になってしまったな(汗)
まあ、いいです。次に書きたいとおもいます。狸と狐の化かしあいとかあるんだが。

今日はこれにて終了。お茶にします。
お先に失礼します。

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家康から見た、小牧・長久手の戦い。そして朝鮮出兵・・・

(2015年10月04日)

さてと解体屋のおじさんです、こんばんは。
今日はですね。小牧・長久手の戦いを家康から見た視点で書こうと思いますが。

というか、さっさと結論から言うと、この戦いで秀吉は家康だけには勝てない、って気づきました。以上。

・・・いや、それじゃあんまりだ?んー・・・資料が見つからなかったんですよ。

ああ、いちおうwikiに掲載されてた。これね。

「「家康は小幡城にいる」との報を受け翌朝の攻撃を決める。家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山城に帰還した。秀吉は翌日この報を聞き、楽田に退いた。」

この時、軍隊がいたにもかかわらず朝には誰もいなかった、と。
昔の軍隊なので、馬がたくさんいます。人はもっとたくさんいます。

そして城を包囲しておりました。でも、いつのまにやら脱出されてた、と。

こんなとんでもない人物、前代未聞の城取名人な秀吉でも、どうやっても勝てません。

家康、その間に「紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。」

wikiから抜粋です。

この状況で家康がねばりまくったら、秀吉、終わってしまいますがな。

というわけで家康に対しては、家康と同盟を結んでいた織田信雄と和解することで対応し、
さらに妹を嫁にやり、さらに自分の親まで人質に出すという手法をとることで、

家康を義弟にし、親まで人質にしたんだから和解しろ、と無茶を言うことで乗り切りました。

家康も苦笑するしかない手法ですな。でも、本当に他に方法ないなあ・・・一歩間違えたら家康が天下人になってたな・・・

たぶん、秀吉にとってはこの男だけには勝てない、ってことを痛感したはずです。いや、本当に危なかったし。
秀吉は家康問題だけは解決することがないまま、死去に至ります。

その間に朝鮮出兵が有り、日本はぼろ負けすることによって、信長、秀吉の拡大路線は修正をしてほしいと、兵士みんなが思い始めます。
そして徳川家康の台頭へと結びついていくわけですが。

というわけで、来週は関ヶ原前夜を書きたいと思います。
朝のコーヒータイム、お先に失礼します。

( ^^) _U~~

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大慌ての脱出/伊賀越え/徳川家康編4

(2015年09月27日)

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
本日は本能寺の変の時の家康の行動について述べたいと思いますが。

ちょうどその時は信長の勧めで堺見物に行ってたんですよ。で、帰り道の河内国で本能寺の知らせを受けるのですが。

明智光秀は全兵力を信長の本能寺に叩き込みました。13000もいましたが、それを全部本能寺に(^^;;

頭に血がのうえぼってたのか、信長がよほど怖かったのか・・・いや、信長のところ20名くらいしかいないから、6500でも勝てるでしょ?(^^;;
んで、のこりの6500を家康にあてたら、後顧の憂いを絶てたのに・・・

本当に頭のいい光秀らしくない行動なので、陰謀説やらノイローゼ説やらいろいろ取りざたされているわけですが。
まあ、でも、6500で攻め込まれたら家康といえども34くらいでは勝てなかったので、少しの幸運はもたらされたわけです。

というわけで家康は慌てて河内国から離れて、三河兵が眠る岡崎城へと向かうわけですが。

羽柴秀吉はそのころ毛利と交戦中です。
柴田勝家は上杉と交戦中。

滝川一益は上野にて行軍中。

織田信孝と丹羽長秀は四国征伐準備中。

さて、家康の行動なんですが、上京して知恩院に入って自刃しようとしたところを、部下が必至で止めたらしい。色々と問題はあるとはいえ、家康も部下に恵まれている。
そして河内国を脱出して三河の岡崎城へと向かうわけですが。

現れる落ち武者狩りは、ほぼ全員明智の手のモノ。だって家康の首を取って明智光秀に渡したら恩賞をもらえる。皆が必至で家康を探している状況になります。なので、山国の伊賀を超えて海路を通って尾張熱田まで逃げようと画策して上手くいきましたが。

この時同行していた梅雪斎不白は別行動をとって、そのまま殺されたとの事。捨て石にされたのか何なのか・・・

家康グループは雑兵100名くらい討ち取っていたっていうから、このメンバーもそうそうたる強さです。

そして岡崎城で準備して上京を開始。明智光秀を討ち取る為です。
ですが、その途中で羽柴秀吉の使いのモノが来まして、

「わが殿、羽柴秀吉が天王山にて明智光秀を打ち取りました、やりました!!」との報告。

実は、家康はここで秀吉に負けたのです。

家康自体は軍をまとめ上げて行軍する速度は決して遅くはない、むしろ早い方だった。

ですが、毛利をペテンにかけて各家庭に伝令を到達させて道中に握り飯を準備させ、食べさせながら中国大返しを行いきった秀吉のほうが一枚上手だった。
秀吉は、「肝心な時はスピードが大事」を実践してのけたわけです。
秀吉と家康は、この後もライバルとして、一手一手を交差させていきますが、それは後の話。

今日はこれにて終了します。
コーヒータイム、お疲れ様です。

( ^^) _U~~

三英傑のそろい踏み。金ヶ崎の退き口。

(2015年09月20日)

さてと解体屋のおじさんです、今晩は。
先週は三河一向一揆を述べたので、今日は信長との同盟の後、はじめて信長が負けた話。

金ヶ崎の退き口を述べたいと思いますが。

この戦いでしんがりを務めたのが、秀吉と家康。
信長も含めてのオールラウンドプレイヤー、三名揃ったわけですが。

先にwikiから抜粋します。

「織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。
敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体はすでに成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行った。」

しんがりって難しいんですよ。負け戦だから退却している訳でして。
しかも、勝ち戦で波に乗っている敵兵の猛攻を受けながら退却しなくてはならない。

敵幹部の首が有っても無視して退却しなくてはならない。猛攻を受け流し、味方兵を逃すことに徹する。

戦略的な一瞬の判断力、攻撃力、守備力、全部備えた人物が指揮をとらないといけない。

信長陣営でさて誰か?と考えた場合、信長は能力揃っているけど頭なので真っ先に逃げないといけない。他にだれかいるかと考えた場合は、秀吉と家康しかいない、となる。

明智光秀や柴田勝家なんかも候補に上げていいかもしれない。ま、でも、秀吉と家康だろうな、となります。

・・・多分、この三名のトリオは日本の歴史上でも最強のトリオかもしれない。信玄と謙信はこの三名より強いだろうけど単独だし。

今日はこんな感じでおしまいにしておきます。
この三名が歴史の表舞台に立ったところで、来週は本能寺の変をもっかい書きます。

家康の視点での本能寺の変になります。宜しくお願い致します。

さてと朝のコーヒータイム。お疲れ様です。
( ^^) _U~~

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三河一向一揆/徳川家康編3

(2015年09月06日)

さてと解体屋のおじさんです、こんばんは。
今日も鎌倉末期からラストの徳川家康編を書こうと思います。
宜しくお願い致します。

先週で織田信長と織徳同盟を結んだ徳川家康は、背後が安全になったことで、積極的に今川領、駿河や遠江へと進行していこうと開始しますが。ここで事件が発生します。

三河一向一揆が発生したのです。
まずはwikiを参照してください。

「現在の安城市野寺の本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)が中心となって真宗門徒に檄を飛ばし、領主の松平(のちの徳川)家康と戦った。三州一向宗乱記に「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、一向宗の小本寺にて、守護不入の道場、当国三箇寺の其の一箇寺なり」と記載されている。
中心勢力は、三河三ヶ寺と本宗寺および、桜井松平氏、大草松平氏、吉良氏、荒川氏といった反家康勢力である。門徒側には、家康の家臣の本多正信(後の家康の参謀)や蜂屋貞次(徳川十六神将)や夏目吉信(三方ヶ原戦役で家康の身代りとして討死)が参加するなど、内紛の様相も呈していた。松平宗家に台頭した安城松平家(家康の家系)が三河の中原に位置する安祥城に居城していた時代から、もともと真宗門徒でもあった安城譜代を勢力拡張に伴って家臣団化したものであり、その最たるものは、本證寺門徒でもあった石川氏である。一族の間で門徒方と家康方に分裂するなど、主君に対する踏み絵にもなった。
三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機とされる。敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。
大久保の三河物語に詳細が長文に渡って記述されている。また、三州一向宗乱記にも詳しい。」

犬のように忠実、と家康の三河の家臣団のことを書かれてありますね。
その忠実な家臣団ですら分裂して家康に反抗したわけです。

今世の主君「徳川家康」よりも来世の主君「阿弥陀如来」の方が大事、と犬のように忠実な三河兵ですら反抗したわけですね。
というか、そもそも浄土真宗の怪物ぶりを書いておきますが。

そもそも浄土真宗は浄土宗の教えを極めたもので、「阿弥陀如来は念仏したら全ての人を極楽浄土に導いてくださる」を極めて、
「阿弥陀如来は念仏したら万人を救ってくださるので、破戒した僧でも救ってくださる」という教えに到達した親鸞を中心に結成された宗派です。

なので、お釈迦様が定めたルール「肉食してはならない、妻帯してはならない」のルールを僧侶も普通の人も破っても救ってくださるという・・・なんていいますかね。それ、もう仏教ではなくなっているんじゃないか?(^^;;
というような宗派なのです。

なので親鸞の直系の子孫というのも存在し、現代の浄土真宗でも親鸞の直系の子孫が代表者として着任しております。

他宗派では、例えば日蓮の直系の子孫とかは存在しません。仏教だと妻帯してはいけない、となっておりますので当然子供が作れない。
阿弥陀如来の浄土三部経を極めつくしたのが浄土真宗ということなのです。

なので布教効果は絶大です。
だって、念仏したら肉食べてようが女性と交わってようが、救ってくださるもの。

そしてその布教に三河兵まで感化されて一向一揆へと繋がったわけです。対応を誤ったら家康は命がなかった。
家康は恐怖し後の宗教統制方法を信長と共に編み出し、それが江戸時代へと繋がりますが。

ただ、晩年の家康が嫌ったのは浄土真宗ではないです。
後の家康が嫌ったのは、日蓮宗不受不施派。

日蓮宗は全ての仏教は日蓮宗に統合されるべきだ、と考えている宗派です。
その宗派が秀吉の時代に宗教統制しようと全宗派が出席するようにと行おうとした豊臣秀吉主催の千僧供養会に出席を拒否したのです。

つまり、秀吉は踏絵として千僧供養会を行ったのですが、ここで日蓮宗は受不施派(日蓮宗は宗派の門徒以外からのお布施は受け取らないが、権力者からはやむを得ない)と不受不施派(宗派の門徒以外は無論のこと、権力者からのお布施も受け取らない)に分裂したわけです。

日蓮原理主義といいますか、そのため江戸幕府はキリスト教と並んで日蓮宗不受不施派も禁教としたわけです。
権力者のお布施をもらわないという事は、権力者のいう事も聞かない、つまり宗教を核とした革命グループに変質しかねないので。

宗教が革命起こすなんてそんな馬鹿な、なんてことはないです。今日取り上げた三河一向一揆もそうですし、石山本願寺は信長と10年は戦争しているし、法文法華一揆という事件も有りましたし、海外に飛んだら日本とイギリス以外はほぼ宗教で戦争している。近年ではイスラム国とかも有りますし。

話題がそれました。元に戻しますと、家康は辛くも三河一向一揆を鎮圧できましたが、宗教の怖さというのを思い知ったわけです。
その怖さが江戸時代へと通じていきますは、それは後の話。

朝のコーヒータイムにします。
お疲れ様です。

( ^^) _U~~

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松平竹千代の人質時代/徳川家康編2

(2015年08月30日)
さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
今日も徳川家康編を書こうと思いますが、wikiにだいたいは書いてあるので、そこを抜粋しながら補足していく形式を取ります。

では、まずはwiki。

「松平氏は弱小な一地方豪族(国人)であった。家康の祖父・松平清康の代で中興したが、清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男・広忠が命を狙われ、伊勢に逃れる事態により衰退[3]。帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、同盟者であった戸田康光に奪われ、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう[1]。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏(今川義元)の元で人質として忍従の日々を過ごした[1]。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(もとのぶ)と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康(もとやす)と名を改めた(「元」は今川義元からの偏諱)[1]。」

というわけで、織田家と今川家を人質として行ったり来たりしているわけですが、
その間に他の戦国大名にはない素養を徳川家康は身に着けることになります。

今川家の軍師にして臨済宗の僧侶、太原雪斎に師事したのです。
今川家は元守護大名で足利源氏の末裔なだけあり、東山文化に詳しく、書物なども大量に保管しておりました。
あふれるほどの書物と、名軍師と呼ばれる太原雪斎に勉学を教わることができる、その環境に身を置くことができたわけです。

織田信長、豊臣秀吉、または最初の戦国大名北条早雲はある意味天才型で、
北条早雲は孫子のページを一つ朗読させただけで「もうよい、わしはそんなことは知っておる」と述べています。

彼らは本能的にそのやり方を真似することが出来たのですが、家康は人質生活が長かったせいですかね。
太原雪斎からきちんと勉学を教わったのです。

それにより他の戦国大名にはない、江戸時代を完成させるものとしての素養を、この人質時代に身に着けることが出来ました。
でも、まだ身に着けただけです。発揮する時はずっと先の話になります。

そして若いころの織田信長との邂逅。信長は好奇心旺盛だから、直に家康を見に行って話したかもしれません。
信長は岐阜を取る前なので、天下伏武構想は有ったとしても、まだ話半分だったかもしれない。

ですが、その話半分も家康は聞いていたと思います。
そして家康は勉学の中でも特に歴史好きで、同じ産砂の地とされる源頼朝を尊敬し、吾妻橋を愛読しました。

「歴史好き」が後に天下人になった。家康の歴史好きは、天下人としても能力を発揮して・・・

えっとね。物凄い話ですが、たぶん黒船なかったら、沖縄も日本も現代でもまだ江戸時代なのは確定です。
江戸幕府を潰す要素が毛利の長州藩くらいしかない。

それくらい歴史を統御してのけた。覇王と司馬遼太郎氏に呼ばれるだけは有る。

ちなみに後の話ですが、おそらくはですが、徳川御三家のうちの水戸家は、将来天皇家と徳川家が対立した場合、水戸家のみは天皇家側につけ、と家康は遺言してたかもしれません。
日本の国学発祥の地は水戸徳川家です。水戸徳川家が日本版朱子学を作り「尊王攘夷」などの言葉を全国に広めた。

っとと、話がそれました。元に戻しますと、こうして人質時代を送った松平竹千代は元服して「蔵人佐元康」と名乗り今川義元に仕えますが、
たぶん、このまま今川家配下として人生を終えるんだろうな、と家康は諦めていたかもしれません。

ところがそこに桶狭間の戦いで信長が今川義元を倒します。
家康は激震します。

軍事力に圧倒的な差が有ったにもかかわらず、義元を打ち取るとは。
それでも当初は家康も今川家に復讐しましょう、と、持ちかけていたのです。

ですが、今川家の答えは「現状を維持せよ」という覇気のない言葉。家康は決断します。
これまでの三河兵と織田兵の諍いをのりこえ、信長と同盟することを。

当主を人質に取られた三河兵は、今川義元の元で常に最前線で戦っていたので、織田兵とは憎しみ合う中だったのです。
でも、それを乗り越えろ、との命令を出した。
織徳同盟の成立です。

この同盟は幕末の薩長同盟にも似ています。薩摩と長州も、幕府側に薩摩が、倒幕側に長州が付いていて憎しみ合っていた。でもそれを乗り越えて長州と共に幕府を倒すことを薩摩はちかった。

ちなみに、信長と同盟を結んだことで、家康は初めて人生が見えてきたかもしれません。目の前には今川領の駿河、遠江があり、良港があり、そこを切り取っていけばいい。

背後は織田家に任せておけばいい。というわけで東海最強の三河兵を率いて、今川領に勢力を伸ばしていきますが。

今日はこのあたりで良いかな。話を次回に回します。

朝のコーヒータイム、お疲れ様です。( ^^) _U~~

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戦国を終結させるもの/徳川家康編1

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
先週はなんか中途半端なのですが、朝鮮出兵の話を終結させたいと思います。

というのも、二回ほど朝鮮半島に出兵しますが宗家の二枚舌のせいで秀吉が朝鮮半島を誤解した結果、慶長の役は悲惨な状況になってしまいます。
そうこうしているうちに秀吉が死去。日本側は朝鮮半島から撤兵します。

朝鮮半島に出兵は完全に失敗したという事になります。

なので、織田信長から始まり秀吉に受け継がれた拡大路線は、ここで修正を余儀なくされることになります。

兵士たちは、もうこう思っています。「ここまでで十分だ、もうこれ以上はいい」

そして徳川家康の台頭を招くことになりますが。

家康については色々とあだ名が付けられます。
「覇王」「歴史を制御するもの」「戦国を終結させるもの」「日本を確定させたもの」「朝幕併存を完成させたもの」「凡人が見習うべき人」

頼朝が権威と権力を分離させ幕府を設立しましたが、はっきりいって二つ政府が有る状態で無理が有ったのですよ。
家康はそれを自然に統合することに成功している。

あと、なぜ凡人が見習うべきか?といったら、信長も秀吉も天才型で、普通の人が真似してはいけないです。信長の真似したら現代でも100くらい命ないと持ちませんよ。あれだ、サダムフセインみたいにアメリカにケンカ売るレベルだから、信長は(^^;;

秀吉だって、その信長を騙してのけるくらいの大魔術師。どんな人でもたらしてのけて、前代未聞の城取名人とか呼ばれてるし。

では、なぜ家康を凡人が見習うべきか?になるわけですが、この話は次回に回します。
家康に関しては、家康の生涯を通して歴史を振り返ることにいたします。

ときは戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)、徳川家康こと松平竹千代は三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生します。

というところで、本日は終了します。
長くなるので、前振りです。

朝のコーヒータイム、またです。
( ^^) _U~~

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