スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

覇王、徳川家康と日本史の総括

(2015年11月22日)

我々現代人は横のつながりで生活しております。その横のつながりは世界と呼んでも良いかもしれません。
ですが、過去という繋がりもあり、それは現代にも繋がり、我々の子供たちから孫へと未来へと繋がっていくわけです。
その縦のつながりを歴史と言います。
歴史を知るということは、自分たちの親の世代からさかのぼり、ご先祖様たちを間接的にとはいえ知るということです。
疎かにせずに知ることで、過去の人たちの知恵や経験を学べます。
それは過去の失敗に対する答えとなっており、成功に対する答えでもあり、現代にも通じて未来へと繋がっていく知識の集積体になります。
知っていて損はないでしょう。

というところで、いつものフレーズに入ります。こんにちは、解体屋のおじさんです。
今日は徳川家康編のラストと同時に自分の日本史ブログのラストと、そういうことなので、仰々しい始まりになりました。
長くなりますよ。江戸時代以前の日本史の総括になりますから。

この日本史ブログを終了したあとは、一ヶ月ほど休養しながら読書して、本命の沖縄史(琉球王国史)に入ります。
今日はその前に日本史を片付けます。ということで、いきますよ。

まず最初に飛鳥時代に日本の土地は全部国のものと決まったわけです。大化の改新です。
租庸調といった税金も発生します。

なので、藤原氏は荘園という脱税システムを作って、開墾した土地は藤原氏に寄付したら税金免除というシステムを導入しました。
不輸の権や不入の権ですね。藤原氏に寄付すると税金はただ、手数料はらうだけ。
なので全国が荘園だらけになって、挙げ句の果てには天皇家まで荘園もちました。

ここで武力もって天皇家を追い出したら易姓革命成立します。というか、他の国なら確実にそうなっている。
沖縄だって金丸は第一尚氏から禅譲されてる。

なのに藤原氏は臣下であり続けたわけです。ちなみに税金払われてないから警察が消えかかってます。
税金なしで警察なんかできるわけないです。だって警察にいても給料もらえないもん。検非違使といいますが。

なので、地方の農民は武装します。武士の起こりです。
武装農民が本来の武士なのです。そして武士は開墾した農民でもあります。

では次の時代に来るのはなにか?それは開墾した土地が自分のものになる時代です。
今のままだと、藤原氏に寄付するしかない。

なので源頼朝はグランドデザインを描きます。
それは幕府を作り全国の武装農民を、朝廷とは別組織の幕府配下のものと位置付けて、警察の仕事をする守護、手数料の半分をとる地頭の設置、
任命権は朝廷にはなく幕府にあるというシステム。幕府は武士を地頭に任命します。
これにより幕府は全国支配を達成しますが。ひとつ問題が。

自分の土地になった武士たちは、均分相続制、わかりやすくいうと、子供みんなに畑を分割して与えたのですよ。
なので畑はどんどん小さくなって、働いても働いても暮らしていけない時代になってしまいました。

なので元寇もあり、鎌倉幕府は倒されます。
なので、次の時代は総領制、わかりやすくいうと一番優秀な人物が全部継ぐという時代になりました。室町時代です。
でも何を持って優秀とするか、基準がないのです。学歴とかもない時代だし。
なので相続争いのオンパレードになり、戦国時代に突入します。

ということだったので、歴史に詳しい家康は、優秀だろうとなかろうと、長子相続制、長男が全部継ぐと決めて、
自ら実行に移したわけです。

家光は壇上にあげて、弟の忠長はお菓子を放り投げてあたえた、厳しいし古くさいという意見もあるでしょうが、
当時としてはそれがベターなのです。

ちなみに自分が江戸時代かかないのは、江戸時代の人たちは長子相続制のせいで普通のひとばっかりだからです。(待て)
いやだって、鎌倉末期から戦国って天皇ですら脱出の天才ですがな。後醍醐天皇ですが。
あの方三回くらい脱出してるぞ。ナポレオンよりすごいわ(^◇^;)

足利義政だって、この人いないと日本文化ないってくらいのレベルだし。芸術方面ですが。

江戸時代は名君もいるけど、基本は普通のひとが集まっての合議制なので、
端折ります。

家康についての意見に戻りますと。
この方は、戦国時代を終わらせるために生まれてきたのではないかな?とも思います。
信長、秀吉だと260年間も平和に保てたとは思えない。

能力自体は信長、秀吉の方が上でしょうが、
歴史を深く考察できる前提条件を揃えていたのは、家康だけでした。

そんなこと言っておりますが家康もとんでもなく強いですよ。
本能寺の変のとき、30くらいの兵で岡崎城に逃げておりましたが、その間に100名も雑兵倒している。(^◇^;)

家康だって普通のひとよりは遥かに強いわけですが、
それでも信長、秀吉、家康三者のなかから手本にする人を選べと言ったら家康になるわけです。

忍耐とか苦渋とかを知っており、意外と短気です。(笑)
信長はそんな言葉知らない、秀吉は本能寺の変で頭下げてたのが、いきなり頭つきぬけて俺についてこいで可哀想(まて)になるので。

と雑談もここまでにして。
これにて自分の日本史ブログも終了になります。

全部まとめると何ページになるかな?ずっと書き続けてました。
それも終了になります。

ここまで長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
しばらく休養いたします。

お疲れ様です。
*\(^o^)/*

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

Amazon/逆説の日本史シリーズへ
スポンサーサイト

江戸時代/覇王、徳川家康の日本

(2015年11月01日)

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
前編で関ヶ原の戦いに勝利した家康は、信長、秀吉の拡大路線に修正を施し、
日本の領土は、本州、四国、九州、ということになりました。

まだ、沖縄と北海道は領地に組み込まれておりませんが、それはのちの話。
ただし、沖縄と北海道も日本語文化圏ですので、必然的に日本に組み込まれます。
でも、それは別の話。今日は江戸時代の話です。

家康はまずは、征夷大将軍になり・・・これは郷土の先輩、源頼朝に習ったのでしょう。
頼朝は三河ちかくで生まれたという伝説があり、家康自身も歴史好きで吾妻鏡を愛読していたので。

そして、中国の儒教をアレンジして導入しました。
よく誤解されている方が多いのですが、「士農工商」は家康のオリジナルでは有りません。
中国の儒教を日本風にアレンジして導入したのです。

士大夫という言葉を聞いたことがありますか?

中国の北宋以降、科挙試験に合格したものを士大夫と呼び、さらに農民、職人、商人を制度上の下位のものとして位置づけしました。
そう、もとの思想は中国のものです。

なので中国と朝鮮半島は日本の士農工商を「兵農工商」とよんでバカにしておりました。
ですが、軍事政権だからこそ近代化を成し遂げるのが早かったのも事実です。でもそれは明治の話です。

ちなみに自分の出身県の沖縄も科挙試験方式をとり、薩摩の介入で少しは武器をもつとはいえ、上流階級は科挙試験出身のままで明治維新をむかえます。
覚悟が足りなかった。子孫の自分も含めて自戒の言葉です。


そして身分の固定化を行ったわけです。農民の子供は農民、職人の子供は職人、これを260年くらい続けたわけです。
なので、前に述べたとおり毛利の家臣はみんな恨みに思っていた。10石の武士は、260年間10石の武士です。子孫も決して変わらない。

そして毛利は安芸(広島)にいたより、貧しくなっている。
だから祖父から孫まで、延々と同じことを言い続けるわけです。

「安芸にいたころは豊かだった」これを延々と。260年も。
司馬遼太郎氏は恨みは世襲する、と述べました。
その事態を引き起こしたわけです。

毛利は潰さなくてはならなかった。ま、でも、それは家康の失敗で、それも数少ない失敗なので、覇王といえども失敗はあるか。という話です。

毛利では失敗した家康ですが、豊臣では子孫を残しませんでした。
何回か述べましたが「悪を背負った」のです。後世のために、です。子孫のためにではない。
争いのない平和な時代を260年も作った。それは偉業といって間違いないです。

その間ずっと平和だったということですから。

そして実は徳川家にとって最大の問題は、毛利でも豊臣でもなくて天皇家ですが。
こればっかりは家康といえども対処できなかった。歴史が古すぎる、今上天皇は日本一の祭主でもある。
家康といえども手出しはできない。

なので、関東を譜代大名で固めて、御三家水戸家にだけは、天皇家と徳川家が争った場合、水戸家だけは天皇家につけ、と遺言した。
多分傍証にしかならないでしょうが、水戸家だけは副将軍にしかなれなくて、日本国学発祥も水戸徳川家が始まりです。
尊皇という言葉は水戸家が広めた。ちょいと弱いかな?ま、でも傍証になるかと思います。

今日はこんな感じかな?コーヒータイムします。
お疲れ様です。あと一回くらいで家康編は終了します。

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

Amazon/逆説の日本史シリーズへ

家康、石田三成を助ける/関ヶ原前夜

(2015年10月25日)

今日の話は以上です。お疲れ様。(待て)
解体屋のおじさんです、こんにちは。

そして今日は関ヶ原前夜を書こうと思いますが、そこで狐と狸の化かしあいが有りました。
それが関ヶ原前夜の石田三成襲撃事件。七将の下にある石田三成襲撃事件をご参考にしてください。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/七将#.E7.9F.B3.E7.94.B0.E4.B8.89.E6.88.90.E8.A5.B2.E6.92.83.E4.BA.8B.E4.BB.B6

豊臣政権下で武断派と統治派で対立があったわけですが、前田利家死後の後表面化したわけですよ。
そして三成を殺そうと七将が大阪で兵をあげたのですが、三成はなんと、徳川家康がいる伏見城に逃げ込んだ、と。
そして天下を狙っている家康も、いまこの時点で三成を殺させるわけにはいかないからと、引退を条件に七将に兵を引かせた。

三成には護衛に自分の息子まで着けるという厚遇で。

家康はこの対立をボヤじゃなくて大火事にしたいんですよ。三成も同様で大火事にして家康を排除したい。

両者の利害が一致という、狸と狐の化かしあいの本領発揮。怖いわ(^◇^;)

なんで俺が護佐丸を忠臣と呼んでいるかは、この化かしあいを知っていたからです。
家康の位置にいたからね、護佐丸は。

ま、ただ、琉球王国の三山統一は応仁の乱以前だから無理とは解っているけども。

ちなみに、この七将は関ヶ原では東軍について戦っております。
武断派は三成憎しのあまり、家康側についてしまった。

豊臣秀頼、執権石田三成、という事態は意地でも避けたかったのでしょう。

そして、家康は上杉景勝挙兵とのことで兵を挙げて上杉討伐、その間に秀頼と毛利輝元を総大将とした石田三成も挙兵、これにより関ヶ原の陣営は整えられました。

結果はみなさん、ご存知の通り。

さて、今日はこれにて終了します。
お茶タイム。お疲れ様です。

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

Amazon/逆説の日本史シリーズへ

関ヶ原から長州藩/不気味な胎動

(2015年10月18日)

さてと解体屋のおじさんです。こんにちは。
んで、今日もiPadで書いてますので、ちゃちゃちゃと終わらせたいと思います。
さて、関ヶ原前夜なのですが、その前に書いておかないといけないことを書いときます。

関ヶ原の戦いは、徳川家康対石田三成となっておりますが、正確には西軍の総大将は石田三成ではありません。
石田三成は西軍の黒幕です。

じゃ、西軍の総大将は誰かというと、毛利輝元。
のちに長州藩になる毛利家です。

だから吉田松陰はこう述べてたのです。
「我々は毛利家の家臣だ。だから関ヶ原からやろう。君たちならどうする?」

主君が悪いとは、口が裂けても言ってはいけません。

ということは、、、

実は関ヶ原で負けたあと、毛利輝元は徳川家康に大阪城と豊臣秀頼を明け渡してます。
部下が反対しきって、大阪城で戦ってたら、,、?

そう、徳川家康は幕末には毛利家を存続させたことにより長州藩という怪物を生むことになり、そのイデオロギーは日本陸軍を生み、アメリカに解体されるまでその精神は受け継がれることになります。

つまり「上層部の意思を無視して、現場が勝手にやってよし」という組織。
関東軍がクーデター的に満州国を建国できたのも、そのイデオロギーが受け継がれていたわけです。
帝国議会は事後承認しか出来ませんでした。

歴史の皮肉というべきか、なんというべきか。
家康も毛利家は潰す予定だったのです。

ですが、東軍についた毛利の両川、吉川家が自分の領地を毛利家にと家康に必死に頼み、家康は渋々と認めました。
ですが、毛利の家臣は恨みに思っていた。

故司馬遼太郎氏も述べたとおり「家康、千慮の一失」だったのです。

あれ、関ヶ原前夜書こうと思っていたけど、毛利家の話になってしまったな(汗)
まあ、いいです。次に書きたいとおもいます。狸と狐の化かしあいとかあるんだが。

今日はこれにて終了。お茶にします。
お先に失礼します。

PS:
自分の日本史ブログは井沢元彦氏の「逆説の日本史」シリーズの影響を受けて書いております。
よろしかったら、本元もお読みくださいませ。

Amazon/逆説の日本史シリーズへ

大慌ての脱出/伊賀越え/徳川家康編4

(2015年09月27日)

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
本日は本能寺の変の時の家康の行動について述べたいと思いますが。

ちょうどその時は信長の勧めで堺見物に行ってたんですよ。で、帰り道の河内国で本能寺の知らせを受けるのですが。

明智光秀は全兵力を信長の本能寺に叩き込みました。13000もいましたが、それを全部本能寺に(^^;;

頭に血がのうえぼってたのか、信長がよほど怖かったのか・・・いや、信長のところ20名くらいしかいないから、6500でも勝てるでしょ?(^^;;
んで、のこりの6500を家康にあてたら、後顧の憂いを絶てたのに・・・

本当に頭のいい光秀らしくない行動なので、陰謀説やらノイローゼ説やらいろいろ取りざたされているわけですが。
まあ、でも、6500で攻め込まれたら家康といえども34くらいでは勝てなかったので、少しの幸運はもたらされたわけです。

というわけで家康は慌てて河内国から離れて、三河兵が眠る岡崎城へと向かうわけですが。

羽柴秀吉はそのころ毛利と交戦中です。
柴田勝家は上杉と交戦中。

滝川一益は上野にて行軍中。

織田信孝と丹羽長秀は四国征伐準備中。

さて、家康の行動なんですが、上京して知恩院に入って自刃しようとしたところを、部下が必至で止めたらしい。色々と問題はあるとはいえ、家康も部下に恵まれている。
そして河内国を脱出して三河の岡崎城へと向かうわけですが。

現れる落ち武者狩りは、ほぼ全員明智の手のモノ。だって家康の首を取って明智光秀に渡したら恩賞をもらえる。皆が必至で家康を探している状況になります。なので、山国の伊賀を超えて海路を通って尾張熱田まで逃げようと画策して上手くいきましたが。

この時同行していた梅雪斎不白は別行動をとって、そのまま殺されたとの事。捨て石にされたのか何なのか・・・

家康グループは雑兵100名くらい討ち取っていたっていうから、このメンバーもそうそうたる強さです。

そして岡崎城で準備して上京を開始。明智光秀を討ち取る為です。
ですが、その途中で羽柴秀吉の使いのモノが来まして、

「わが殿、羽柴秀吉が天王山にて明智光秀を打ち取りました、やりました!!」との報告。

実は、家康はここで秀吉に負けたのです。

家康自体は軍をまとめ上げて行軍する速度は決して遅くはない、むしろ早い方だった。

ですが、毛利をペテンにかけて各家庭に伝令を到達させて道中に握り飯を準備させ、食べさせながら中国大返しを行いきった秀吉のほうが一枚上手だった。
秀吉は、「肝心な時はスピードが大事」を実践してのけたわけです。
秀吉と家康は、この後もライバルとして、一手一手を交差させていきますが、それは後の話。

今日はこれにて終了します。
コーヒータイム、お疲れ様です。

( ^^) _U~~

プロフィール

moromizato12

Author:moromizato12
トラック解体屋のおじさんが我田引水に歴史を語る、そんなブログです。
ティーダブログからお引越ししてきました。

最新コメント

月別アーカイブ

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。